HIGEの独り言
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日本人は本当にお寿司が好きだ。上等のお寿司屋にそう簡単には行けないが、回転寿司は何時でも盛況だ。典型的な握りずしは、酢飯にわさびを置き、その上に魚介の身を置いて握ったものだ。それに醤油をつけて食べる。わさびは寿司に必須のものと思うが、辛子や柚子胡椒、梅干し、マヨネーズなんてなものもある。酢飯がなければそれは刺身だ。ごはんのおかずでも、酒の肴でも日本人は刺身が大好きだ。刺身をロー・フィッシュと称して外国人で食べる者はそう多くなかった。この頃は世界中で刺身やお寿司が食べられている。中国人がマグロを大量買いするとの話もある。うまいものは誰が食ってもうまいということだ。
握りずしを構成するのは、酢飯、わさび、刺身、そして醤油である。これが一体となっているからうまいのだ。単独でも食べてうまいものはご飯だ。わさびも刺身も醤油も単独で食べれないことはないが、たくさんとはいかない。ご飯とわさび、醤油があった方が絶対に良い。ご飯と刺身、これも醤油は必須だろう。ご飯と醤油、熱いご飯に醤油を少しかけてかき回したものは十分にうまい。でも刺身やわさびがあればもっとうまい。醤油とわさび、酒のあてになる。醤油と刺身、立派な料理である。
お寿司でもう一つ重要な役割を果たしているのが、酢である。勿論お寿司用の酢飯は砂糖塩などで味付けしてあるが、ご飯と酢単独でも相性はいいと思う。わさびと酢の組合せは試したことはない。酢と刺身の組合せは大いにある。そして酢と醤油の組合せである。
この酢醤油は、わが家では定番の調味料であった。私の故郷はコメが主であることは勿論であるが、うどん文化圏にあると思う。蕎麦というものにあまり馴染みはない(年越しそばは食べた。ただ、成人した後のことだが、蕎麦通の友人に云わせると,それは蕎麦フレーバのうどんだということになる)。そうめんや冷麦は酢醤油で食べるのだ。分量は好み。私はどちらかというと酢が多い。最初の一口は、誰もが「ゲホッ」と酢でせき込む。一寸醤油味が強いかもしれないが、二口、三口と進むにつれて、馴染んでくる。水っぽくなったら酢醤油の追加だ。勿論、薬味に生姜をすりおろしやネギ(わが家のねぎは白いところ)を刻んで入れればなおのことである。唐辛子でもよい。茗荷なら最高だ。
とりまとまらなくなった。
つい最近の母親からの電話「初めて寿司が回っておる店に連れて行ってもろうたんや。ばっかいならん楽しいとこやなぁ。好きなもんとれるし、見とるだけでもおもしろかった。」
故郷は本当に何もない田舎だ。回転ずしが近くにあるわけでない。86歳にして初めての経験だ。長男なのに家を出て、実家で過ごした日は本当に少ない。元気でいるのが親孝行とばかり、何もしていない。都会や若者にとって日常茶飯事でそう特別ではないようなことが、田舎や年寄にとっては刺激的なことなのだ。そう考えれば、回転ずしなんか珍しくもないからではなく、まずは、あちこち何処へでも連れ出してみることだ。母ちゃん今度帰ったら、回転ずし行こうな。
私が育った石川県能登半島の付け根、口能登と呼ばれるところに、「邑知潟(おうちがた)」という潟湖がある。邑知潟は、羽咋川で日本海とつながっていて、その季節になると、たくさんのボラが海からやって来た。湖面が波立つほどの群れだ。これを手製の竹竿、餌はミミズで釣る。潟でのボラ釣りは、父親と一緒にできる遊びであり、競争心を煽る漁でもあった。
ボラは、本質的にはおいしい部類の魚だと思う。刺身やあらいはうまい。ただ、ボラは悪食だ。潟までやってきたものは、上手に捌いてやる必要がある。内臓をきれいに取り除かないと、若干泥くささが残ることがある。でも好きな人は、それはそれでとあらいを楽しむ。刺身やあらいに子供の関心は薄い。あるのはボラの臍とボラの茶飯だ。
ボラには臍がある。一匹に一個、そろばん玉のような形をしている。臍を何個も串に刺し、醤油ダレをつけて焼く。香ばしく焼き上がった筋肉質の臍は、父親の酒のあてとなり、子供たちの取り合いのおかずとなった。
ボラの茶飯は、ボラのかば焼きの茶漬けのことだ。ボラの釣果にもよるが、囲炉裏には、沢山のボラの竹串が立並んでいた。囲炉裏は煮炊きの場だ。囲炉裏の火にはいろいろある。薪をくべたばかりは煙が主役だ。家中煙たい。薪が燃え盛ると炎が主役となる。家族が集まり煮炊きや暖をとる。そして熾火だ。囲炉裏の熾火は消すことのないよう灰を被せておく。囲炉裏のボラは、煙に燻され、炎で表面を焼き焦がされ、遠火の強火でじっくりと焼かれる。その間、串の位置を入れ替え、ボラの裏表を入れ替える。この作業には加減があり、子供の仕事ではない。
程好くできたボラの白焼きに、砂糖、酒を加えた醤油ダレをかける。それを焼いて、またタレをかける。数回これを繰り返すと、ボラのかば焼きのできあがりだ。丼に盛った熱いごはんの上に、できあがったばかりのボラのかば焼きをのせる。醤油ダレを少しかけ、そこに熱々の煎茶をたっぷりかける。ダシではなく、煎茶だ。ボラの身をほぐし、丼の中でこれらをかき回す。かば焼きのうまみが煎茶にとけだす。香りもご飯と醤油だれと一体となる。ボラだけでもなく、タレだけでもない。全体にうまさがいきわたった熱い茶漬けのできあがりだ。これをハフハフしながらかきこむ。ボラはたっぷりある。おかわり自由だ。ボラの茶飯は、小腹がすいたと時とか、飲んだ後のしめの茶漬けではない。わが家ではメイン料理だった。
やがて邑知潟は干拓され、そのほとんどが農地に変わった。羽咋川にも堰が設けられボラがやってくることはなくなった。立ち並ぶボラの竹串の場所や裏表を入れ替える父や母の、囲炉裏火で赤く染まった顔や、その作業を見ながら、これはとねらった串から眼が離せなかったこと、それが自分の丼にのせられた時の嬉しかったことなど、家族みんな一緒に食べた熱々のボラの茶飯は、遠い昔の懐かしい、おいしい記憶となっている。
テレビの「おしん」でも大根飯が出ていたと思う。貧しかった時代、農村ではコメに大根やサツマイモあるいは菜っ葉などでかさまししたご飯を食べていた話はよく聞く。
大根飯が実際にどんなものだった知らないので、母親に訊いた。「自分で料理したことないけど、食べたよ。田んぼで仕事をしてきた大人の人が、今日は大根飯やったから腹がへってしょうがないとゆうとったが覚えとるわ」。「どうやって作ったんかな?」。「オラは作ったことはないけど。おばばは、大根を米粒大、それよりでかかったかなあ、さいの目に切って、コメと一緒に炊いとったわ。大根の方がコメより余計にはいっとった。水加減はどうしたもんかしらんが。おまんがゆうように水気が多いシャブシャブなもんではなかったよ」。
さて、ここで紹介する大根飯は、母親のおばばが工夫したものだということだ。これは今も時々私が作る。妻も子供もうまいと言って食べてくれる。
材料は、冷や飯、油少々、味噌、大根である。大きめのフライパンに、大さじ一杯ぐらいの油を入れる。次に大根を通常のサイズなら半分から1本ぐらいをつきおろして入れ平らにする。その中心に味噌を大さじ山盛りで3杯(もっと多いかも)ほど置く。つきおろした大根の上にみそを置くだけでいい。それらの上に冷や飯を覆い被せるように置く。蓋をして準備が完了だ。最初の2~3分は強火にする。それ以降は弱火でじっくり火をとおす。
そのうち、大根から出た蒸気が冷やご飯を熱くし、大根と味噌の香りがしてくる。若干大根が焦げるくらいまでおいた方がいいと思う。ここだと思ったら、一旦火を止め、蓋をとって、コメと味噌と大根をかき混ぜるのだ。できるだけ均等に混ぜた方がいい。(母親はある程度混ぜたら茶碗によそってくれた。だから時には味噌の塊や大根の塊が入ることもあった。茶碗の中で混ぜればよいのだから、それはそれで味の濃いところや香りの強いところが当たったという楽しみでもあった)。大根飯は、簡単に言えば、大根の水分でご飯を蒸し、味噌で味付たものであるから、かき混ぜる段階はかなり水分が多く柔らかい。これでもうまいが、私は一応均等に混ぜ合わさったら、水分を飛ばす意味と、ちょっと焦げ目をつける意味で強火で仕上げることにしている。辛味が欲しければ一味唐辛子をかけるのも良い。
料理法に程遠い本当に大雑把な紹介で申し訳ないが、味噌を入れ過ぎなければ、そんなに当たり外れなく仕上がると思う。大量の大根は、どこへ行ってしまったかと思う程ご飯とよくまじりあって目立たない。大根飯は味噌の色に染まって大根と味噌の香りで食欲をそそるはずだと思う。私は好きだから冷えてもうまいと思う。
貧乏くさい大根飯のイメージだが、おいしく食べさせようと、女たちはいろんな工夫をしたことであろう。
かぶらずしは故郷の冬のうまいもんである。
かぶらにブリの切り身をはさんで、麹で発酵したなれずしの一種である。土産物のかぶらずしは結構な値がする。そんなのを食べたのは結婚した後のことだ。
わが家のかぶらずしは、ブリの代わりにサバを使ったやつで、時にはかぶらの代わりに大根を使うこともあった。
かぶらずし用のサバは、リヤカーで魚を売りに来る石崎のおばちゃんに頼んでおく。おばちゃんはいいサバを選んで塩サバにして持ってきてくれる。それを三枚におろし、だし昆布をいれた酢でしめるのである。しめさばの作り方と同じようであるが、酢でしめる時間はずっと長い(らしい)。
切り身にしたサバを、塩漬けした(母は直接塩を振りかけるのでなく、塩水につけたらしい)かぶらにはさむ。まず、かぶらずし用の木の桶の底に、麹で作った甘酒(麹にぬるま湯を混ぜて、保温して作ったもの)を敷く。その上にサバをはさんだかぶを置いていく。そしてその上を甘酒で覆う。にんじんのせん切りとなんばを散らし、またかぶらを置く。これを繰り返すのだ。最期に蓋をして重しをかけて10日ぐらい発酵させるのである。
市販のかぶらずしは、多分に水分が残っているものが多いが、わが家のサバのかぶらずしは、食べる直前で逆重しをして水分を切る。だから触感はかなりこりこりして心地よい。これはうまい。本当にうまい。子供でも幾らでも食べれた。
今では、母手作りのかぶらずしはかなわなくなった。市販のかぶらずしを食べる機会はあるがやっぱり食べなれた母のかぶらずしは最高だと思う。
女房殿の母親は、乱切りした大根と身欠きにしんを麹で発酵させた大根ずしをよく作ってくれた。身欠きにしんをどう調理するかは聞き逃してしまったが、これも本当にうまかった。
最近物忘れがすごい、年をとったものと嘆く母。確かに老いてはいる。すこしでも長くしっかりした母でいてもらいたい。それで、互いに声を聞き、元気を確かめあうだけだった日々の電話を、慣れ親しんだ母の料理を話題にして、どうやって作るのかを聞くことにした。母との会話を上手くまとめ表現できれば面白いものができるのだが、それは追々にして。
文章にしようとすると、いろんなことを思い出すし、不明確なことにも気が付く。母の記憶もまだ確かだし、思い出そうと努力してくれるのがわかる。さすが、オラの母ちゃんだ。
わが家では正月のお雑煮は小豆雑煮である。餅は丸餅である。結構大きい。だがぜんざいとかお汁粉とはちょっと違う。味付けは雑煮を椀に盛った後で各自で行う。卓袱台に置かれた砂糖と塩の壺から、自分の好みに応じてそれらを加えるのである。
私はこれが嫌いであった。餅は大好きだがこれは食べられなかった。おかげで私の正月の朝の食べ物はかちんかちんの冷や飯だった。母親に言わせると、「正月はから暖かいご飯は食べないもんや、正月は餅を食うことに決まっている」。「何で小豆なんか」。「正月に赤いものはめでたいからや」とのことだった。
つくり方を聞いた。水炊きし柔らかくなった小豆を食べる分だけ鍋に取り出し、その上に丸餅をおき、そこに水を加えて煮るとのことである。そうすると、小豆が餅によくくっつくそうである。囲炉裏にかけた鉄なべから、それを取り出しうまそうに食べていた父親が思い浮かぶ。子供の頃は、なんでそんなにうまそうに食べるのか全く理解できなく冷や飯を噛みながら見ていたものだが。
正月のお雑煮が、丸餅だと角餅だとか、焼くとか水煮するとか、醤油仕立てとかみそ仕立てとか、肉だ魚だとか、かまぼこを入れるとかゆずを入れるとか、わが家の小豆雑煮とは程遠いものだと知ったのは成人してからだ。「お前の家の雑煮は?」と聞かれ「小豆・・」というとリアクションは決まっていたものだった。
TVで「けんみんショー」という人気番組をよく見るが、全国には様々なお雑煮があり、小豆雑煮も珍しいが、日本人にとって小豆というものが持つ「めでたさ」の意味からすると「ありかな」と思うようにはなっている。
最近母親と話していて、気が付いた。正月の行事で作る餅は正月3が日分に限った量ではなく、かなり大量に作る。だから餅は冬場には毎日のように食べる。その食べ方には、いろいろ工夫したことであろう。焼いたり、揚げたり、水煮にしたり、きな粉や砂糖や醤油をつけたり、当然、雑煮にしても醤油仕立てやみそ仕立てにしたことであろう。七草粥を食べるという日は、七草を拡大解釈した様々な野菜や油揚げ、こんにゃくなどが入った七草雑煮を食べたものだ。これは大好きだった。このように考えると、せめて正月はめでたい小豆雑煮を食べるということにしてこれが定着したものなのだろうか。